LOGINその日の仕事が終わったのは、19時半を過ぎた頃だった。
重い身体を引きずるように会社ビルを出る。微熱と倦怠感は、まだ残っていた。
首筋の疼きも、夕方から少しずつ強くなっている。
(早く帰って休もう……)
そう思いながら駅へ向かって歩き出した、その時だった。
会社の正面玄関前に、一台の黒塗りの高級車が静かに停まっていた。
見覚えのある車だったことに、胸の奥がざわつく。
まさか――。
後部座席のドアが、ゆっくりと開く。降りてきたのは、長兄・九条蓮だった。
端正な顔立ちに、相変わらず感情の読めない笑みを浮かべている。
「久しぶりだな、湊」
その一言だけで、全身の血の気が引いた。
逃げなければ――そう思うのに、足が動かない。
兄さんは呆然と立ち尽くす俺を見つめたまま、車へ向かって静かに頭を下げた。
「父上」
その呼びかけだけで、心臓が一瞬で凍りつく。
九条家の当主である父・怜司が、ゆったりとした動作で車から降りてきた。父は穏やかな笑顔を浮かべながら、俺を見つめた。
「元気そうじゃないか、湊」
俺は完全に固まってしまった。指先が冷たくなり、書類鞄を持つ手が震える。喉が塞がったように声が出ない。
数ヶ月ぶりに見る父と兄の顔が、悪夢のように現実味を帯びて迫ってくる。
(……どうして)
ここにいるはずがない。勘当されたはずの自分が、九条家の人たちに会うはずがない。
しかし現実は、冷たく目の前に立ちはだかっていた。
父が一歩近づき、優しい——しかし底冷えのする声で言った。
「少し、話がしたいんだが……いいだろう?」
俺は一歩も動けなかった。逃げたいのに、身体は熱に縫い止められたように動かない。
九条家はついに、俺の前に姿を現した。
湊を見送るため、エントランスの窓際から、智臣は静かに外を見ていた。
夕暮れの薄闇の中、一台の黒塗りの高級車が会社の正面玄関前へ滑るように停まる。後部座席のドアが開き、降り立った人物を確認した瞬間、智臣の瞳が細められた。
「……来たか」
低い声がその場に落ちる。智臣は片手で窓ガラスに触れ、冷たい表面に指を這わせた。
眼鏡の奥の視線は鋭く、玄関前に立つ三人の姿を捉えている。
九条怜司と九条蓮。そして、その前で立ち尽くす湊。
智臣はゆっくりと拳を握る。胸の奥が、異様にざわつく。理由は分からない。ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
あの二人に、湊を近づけてはいけない。その思いだけが、理性よりも先に身体を動かそうとしていた。
智臣は静かに踵を返し、扉へ向かって歩き出す。
九条家が動き出した。ならば、自分も動くしかない。
***
九条怜司と蓮の視線が、冷たく俺を射抜いていた。
父の穏やかな笑顔。兄の値踏みするような眼差し。そして、勘当されたはずの自分が、会社の前で待ち伏せされているという異常な状況。
そのすべてが、俺の胸を強く締めつける。
(どうして……)
息が苦しい。胸の奥が焼けるように熱い。首筋の疼きが一気に強くなり、視界が揺れた。
「……っ」
膝から力が抜ける、その瞬間だった。抑え込んでいた甘いフェロモンが、一気に周囲へ溢れ出す。
これまでとは比べものにならないほど濃密で、甘い香りが漂ったことで、ヒートがついに始まった。
ビルのエントランスから出た瞬間、甘い香りを感じ取った智臣の顔色が変わる。
「――湊!」
低く鋭い声が響く。
考えるより先に身体が動いていた。
距離を置くと決めたことも理性で抑え込んできた想いも、その一瞬ですべて吹き飛んだ。
智臣は駆け出していた。そして、倒れかけた湊の身体をその腕が力強く受け止める。
「……湊」
名前を呼ぶ声は、自分でも驚くほど切迫していた。
智臣は肩を抱き寄せ、離れないよう湊をしっかりと支える。
その腕に迷いはない。
だが、その瞬間――。
(……しまった)
智臣は内心で息を呑んだ。もう、人目も何も気にしていなかった。
目の前で一部始終を見ていた怜司は、ゆっくりと口角を上げた。
「……やはり」
蓮も静かに笑う。
「完全に、理性を失いましたね」
二人にとって、それは何より雄弁な証拠だった。
湊という存在が、一ノ瀬智臣の理性をここまで崩した。それだけで十分だった。
怜司は静かに目を細める。
(――計画は、予定通り進んでいる)
***腕の中にいる湊の身体は異常なほど熱を帯び、抑えきれなくなった甘いフェロモンが周囲へと広がっていく。
湊は苦しげに眉を寄せ、浅い呼吸を繰り返していた。
「……社長……」
掠れた声が漏れ、湊の利き手が智臣の胸元を弱々しく掴む。
その瞬間、智臣は湊を抱き上げた。
周囲の視線など、もう気にしてはいなかった。
そのまま数歩進んだところで、智臣は足を止めることなく、背後に短く声を投げた。
「井上」
「はい」井上は、すぐに一歩前へ出る。
「病院へ連絡」
「すでに済ませております。受け入れ態勢も整っています」間髪入れない返答だった。智臣は小さく頷く。
「社内は任せる」
「承知しました」さらに一瞬だけ足を止め、智臣は九条家へ視線を向けた。その瞳には、これまでにない鋭い光が宿っている。
「九条家は近づけるな」
「お任せください」その一言を聞くと、智臣はもう振り返らなかった。
湊をしっかりと抱きかかえたまま、黒塗りの社用車へ乗り込む。ドアが閉まると同時に、車は静かに走り出した。
残された井上は、ゆっくりと九条怜司と蓮へ向き直る。
そして、いつもの穏やかな笑みを浮かべながら、丁寧に一礼した。
「申し訳ございません。本日のご面会は、これまでとさせていただきます」
怜司は去っていく車を見送り、小さく笑った。
「……優秀な秘書ですね」
その言葉に、井上も穏やかに微笑む。
「ありがとうございます」
柔らかな口調とは裏腹に、その瞳は少しも笑っていなかった。
「本日は患者の容体が最優先です。どうかお引き取りください」
怜司は井上を静かに見つめ、やがて口元だけで笑う。
「また日を改めましょう」
そう言い残し、蓮とともに黒塗りの車へ乗り込んだ。
車がゆっくりと走り去るのを見届けると、井上はようやく小さく息を吐く。
(社長……あとはお願いします)
祈るような思いで、病院へ向かった社用車の消えた方向を見つめていた。
その日の仕事が終わったのは、19時半を過ぎた頃だった。 重い身体を引きずるように会社ビルを出る。微熱と倦怠感は、まだ残っていた。 首筋の疼きも、夕方から少しずつ強くなっている。(早く帰って休もう……) そう思いながら駅へ向かって歩き出した、その時だった。 会社の正面玄関前に、一台の黒塗りの高級車が静かに停まっていた。 見覚えのある車だったことに、胸の奥がざわつく。 まさか――。 後部座席のドアが、ゆっくりと開く。降りてきたのは、長兄・九条蓮だった。 端正な顔立ちに、相変わらず感情の読めない笑みを浮かべている。「久しぶりだな、湊」 その一言だけで、全身の血の気が引いた。 逃げなければ――そう思うのに、足が動かない。 兄さんは呆然と立ち尽くす俺を見つめたまま、車へ向かって静かに頭を下げた。「父上」 その呼びかけだけで、心臓が一瞬で凍りつく。 九条家の当主である父・怜司が、ゆったりとした動作で車から降りてきた。父は穏やかな笑顔を浮かべながら、俺を見つめた。「元気そうじゃないか、湊」 俺は完全に固まってしまった。指先が冷たくなり、書類鞄を持つ手が震える。喉が塞がったように声が出ない。 数ヶ月ぶりに見る父と兄の顔が、悪夢のように現実味を帯びて迫ってくる。(……どうして) ここにいるはずがない。勘当されたはずの自分が、九条家の人たちに会うはずがない。 しかし現実は、冷たく目の前に立ちはだかっていた。 父が一歩近づき、優しい——しかし底冷えのする声で言った。「少し、話がしたいんだが……いいだろう?」 俺は一歩も動けなかった。逃げたいのに、身体は熱に縫い止められたように動かない。 九条家はついに、俺の前に姿を現した。 湊を見送るため、エントランスの窓際から、智臣は静かに外を見ていた。 夕暮れの薄闇の中、一台の黒塗りの高級車が会社の正面玄関前へ滑るように停まる。後部座席のドアが開き、降り立った人物を確認した瞬間、智臣の瞳が細められた。「……来たか」 低い声がその場に落ちる。智臣は片手で窓ガラスに触れ、冷たい表面に指を這わせた。 眼鏡の奥の視線は鋭く、玄関前に立つ三人の姿を捉えている。 九条怜司と九条蓮。そして、その前で立ち尽くす湊。 智臣はゆっくりと拳を握る。胸の奥が、異様にざわつく。理由は分からない。ただ一つだけ
朝の執務室は、いつもより重い空気に包まれていた。 智臣がデスクで書類に目を通していると、ノックもそこそこに井上が入室する。彼の表情は普段より硬く、声もわずかに緊張しているのが目についた。「社長……九条家のご当主とご長男がお見えです」 智臣の指が、書類の端で止まった。一瞬の沈黙の後、彼は静かに立ち上がった。(――とうとう来たか) 内心でそう呟きながら、智臣の瞳は冷たい光を帯びた。 井上は心配そうに続けた。「応接室にご案内していますが……どうされますか?」「会う」 智臣は短く答え、ジャケットの襟を整えた。 九条家がついに動き出した——仕組まれた運命の、最初の本格的な衝突が。 応接室の重厚な扉が開くと、そこには二人の男が待っていた。 九条 怜司——湊の父であり、九条家の当主。端正な顔立ちに冷たい微笑みを浮かべ、ゆったりとソファに腰を下ろしている。その隣には長男の蓮が、恭しく控えていた。 智臣は静かに部屋に入り、向かいのソファに座った。表面上は、両者とも穏やかな笑みを浮かべている。しかし、部屋に流れる空気は張りつめ、目に見えない刃が交錯した。 そんな緊張感が漂う中、怜司が先に口を開いた。「突然お邪魔して申し訳ありません、一ノ瀬社長。湊の様子を見に来ました」 智臣は落ち着いた声で返す。「秘書として問題なく勤務しています。ご心配には及びません」 怜司の笑みが、少し深くなった。「親として心配でしてね。勘当したとはいえ、血を分けた息子ですから」 智臣の瞳が、わずかに細まる。「勘当されたのでは? 親としての権利は、すでに放棄されたものと理解していますが」 一瞬、応接室の空気が凍りついた。怜司は笑顔のまま、静かに口を開く。「血は争えません。湊が一ノ瀬グループでどれだけ貢献できているか、確認したく思いまして」 智臣は表情を変えずに、淡々と答えた。「九条湊は優秀な秘書です」 怜司の目が、わずかに鋭くなった。「優秀ですか。湊もようやく、社会人として落ち着いてきたようですね」「彼は私にとって、必要な人材です」「それは結構なことです」 智臣の指が、膝の上でわずかに動いた。二人の視線が、正面からぶつかり合う。 怜司は優雅に微笑みながら、しかし底冷えのする声で言った。「親として、息子の幸せを願うのは当然のことでしょう?」 智臣は静
*** その夜、湊はアパートのベッドで目を覚ました。 時計の針は午前二時を指している。部屋は暗く、ただカーテンの隙間から入る街灯の光だけが、ぼんやりと床を照らしていた。 身体が、やけに熱かった。額に浮かぶ汗を拭おうと手を上げた瞬間、首筋に鋭い疼きが走った。 まるでそこに熱い鉄を押し当てられたような、甘く苦しい感覚。下腹部にも、じんわりと疼きが広がっていく。 息を荒くしながら上半身を起こし、ベッドの端に座った。 シーツが、甘い香りで満ちていた。自分の体から発せられる、濃厚で柔らかいフェロモンの匂い。 これまでほとんど感じなかったものが、今ははっきりとわかるほど強くなっている。「……っ」 自分の首筋に手を当て、震える息を吐いた。(違う……そんなはずない) 欠陥オメガの自分に、本格的なヒートなんて起こるはずがない。 そう思おうとするのに、首筋の疼きも身体を満たす熱も、それを許してくれなかった。 熱が引かない――胸の奥がざわつき、頭がぼんやりとして、思考がまとまらない。 夜ごと繰り返されるこの症状は、もう「風邪」などという生易しいものではなかった。 初めて、自分の異変を正面から認めた。「俺……やっぱり、おかしいかもしれない」 掠れた声が、暗い部屋に小さく落ちた。 欠陥オメガの自分が、まさか本格的なヒートを迎えようとしているなんて。それも、一ノ瀬智臣という運命の番の影響で。 膝を抱え込み、額を膝の上に押し付けた。智臣の顔が、脳裏に浮かぶ。 冷たい視線。距離を置く後ろ姿。それでも、定食屋で向かい合って食べた夕食。初めて名前を呼ばれた夜――あの一瞬だけ見せてくれた優しさ。(……もう、社長の傍にいちゃいけないのかもしれない) 自分の体が、智臣の存在に反応して熱を発している。このまま傍にいれば、きっと迷惑をかける。もっと、もっと大きな負担を。 そんなことを考えながら、唇を強く噛んだ。目頭が熱くなり、涙がこみ上げてくるのを必死に堪える。 夜の静けさの中で、初めて自分の体が「抗えない熱」に飲み込まれ始めていることを、はっきりと自覚した。(――社長から離れなきゃ) その思いだけが、熱に浮かされた頭の中で静かに形を成していく。それが自分にも、社長にも一番いい選択なのだと信じながら。*** 翌朝。熱は少し下がっていた。夜中はあれほど苦
あれから一週間が経った。俺の体調は、明らかに悪化の兆しを見せ始めていた。 夜だけだった熱が、昼間にも微かにぶり返すようになった。朝起きた時点で既に体温が少し高く、午後になると額や首筋がじんわりと熱を持つ。 フェロモンの香りも、抑えきれなくなっていた。 抑制剤を多めに飲んでも、甘く柔らかい匂いが時折ふわりと周囲に漂う。 それでも、自分に言い聞かせていた。(……これはただの風邪、季節の変わり目で体調を崩しただけだ) そう思い込むことで、現実から目を逸らしていた。 会社では、その異変が誰の目にも明らかになり始めていた。 午前中、コピー機の前で資料を待っている最中、突然立ちくらみが襲ってきた。視界がぐらりと揺れたことで、慌てて機械に手をつく。足元がふらつき、膝に力が入らない。「九条くん、大丈夫?」 近くにいた女性社員が、心配そうに声をかけてきた。「……はい、大丈夫です。ちょっと貧血気味みたいで」 無理に笑顔を作って誤魔化した。 午後には階段でふらついた。二階から三階へ上がる途中で足がもつれ、危うく転びかけた。抱えていた書類が数枚、階段に散らばる。 通りかかった男性社員が慌てて拾ってくれたが、明らかに心配そうな顔をしていた。「顔色悪いよ? 本当に大丈夫?」「ありがとうございます。少し寝不足で……」 また笑って誤魔化す。その笑顔は以前より明らかに無理をしているのが、傍から見てわかってしまうだろう。 夕方近く、また書類を落とした。智臣に提出する重要な報告書の束が、デスクの上で滑り落ち、床に散乱する。拾い集めながら、唇を強く噛んだ。(……どうして、最近こんなに調子が悪いんだろう) 熱は微熱なのに、身体が重い。集中力も続かず、ちょっとした動作でふらつく。そして、体から漂う甘い香りを、自分でもはっきりと感じるようになった。 欠陥オメガの自分が本格的なヒートに近づいているなど、まだ考えたくもなかった。 床に散らばった書類を拾い集めながら、小さく笑った。「……まだ、大丈夫」 誰に言うでもない、掠れた独り言。その言葉は、自分自身を安心させるための呪文。けれど、その声にはもう力がなかった。*** 執務室のガラス越しに、その姿を見つめる男がいた。智臣は手にしていたペンをゆっくりと置き、静かに目を伏せる。 また、ふらついた。今日だけで三度目だ
*** その日の午後、重要書類を智臣に届けるため、役員フロアへ向かっていた。 廊下の角を曲がろうとした、その時だった。役員たちの話し声が聞こえ、思わず足を止める。 壁越しに聞こえてきたのは、智臣の声だった。壁に貼りつくように体をくっつけながら、そっと覗き見る。「社長、どうして九条を外さないのです?」 常務の一人が、不満を隠そうともせず問いかける。「最近のミスは目に余ります。このままでは会社の信用にも関わる」 その場にいる他の役員たちも小さく頷いていた。 俺は書類を抱えたまま、その場で息を潜める。(……社長) 胸が嫌な音を立てたとき、智臣は少しだけ間を置いて答えた。「99.9%だからだ」 静かな一言だった。その言葉だけで、役員たちが黙る。 智臣は表情一つ変えずに続けた。「現時点で彼を外す理由はない」「99.9%の適合データは、今後の経営判断にも影響する。軽々しく動かす案件ではない」 役員たちは互いに顔を見合わせる。「なるほど……そういう判断ですか」「理解しました」 それ以上、反論は出なかった。 話題は別の案件へ移っていく。 しかし、俺の耳には――『99.9%だからだ』 その一言だけが、何度も何度も反響していた。(……やっぱり) 胸の奥が、音を立てて冷えていく。 社長が自分を傍に置いてくれているのは、俺だからじゃない。99.9%という数字だから。 病院で助けてくれたことも。定食屋で食事に誘ってくれたことも。名前を呼んでくれたことも。 全部――運命の番だから。 それ以上の意味なんて、なかった。(……俺は) ただの九条湊じゃない。99.9%という数字のついた、"適合データ"でしかなかったんだ。 書類を抱える指先が震え、目頭が熱くなった。 泣くわけにはいかない。それでも、胸の奥が張り裂けそうに痛かった。*** その夜、俺はアパートのベッドに座ったまま、膝を抱えていた。 部屋は暗く、街灯の光だけがカーテンの隙間から差し込んでいる。 今日、廊下で耳にした智臣の言葉が、何度も何度も頭の中で繰り返されていた。『99.9%だからだ』 たった一言、それだけで十分だった。 告げられたセリフを思い出し、小さく息を吐きながら力なく笑う。 それは、自分を納得させるための笑みだった。(……そうだよね) 社長が俺を
退院から二週間が経過した頃、湊の体に再び異変が訪れ始めた。 昼間は、なんとか平常を装えていた。 仕事中は集中力を振り絞り、一つでも失敗を減らそうと必死だった。以前のように迷惑をかけたくない。その思いだけで、どうにか一日を乗り切っている。 しかし、夜になると決まって高熱がぶり返すようになった。 アパートの狭い部屋でベッドに横になると、じんわりと体温が上がっていく。 首筋や胸の奥が熱を持ち、微かな疼きが波のように押し寄せては、静かに引いていく。 フェロモンの香りも、以前より明らかに濃くなっていた。 枕やシーツに移った甘い香りに気づくたび、小さく眉を寄せる。「……こんな匂い、前はしなかったのに」 ぽつりと零した声は、静かな部屋に吸い込まれていった。 布団を抱き寄せ、額の汗を手の甲で拭う。(……まだ大丈夫) そう、自分に言い聞かせる。 病院では「過労とストレス」だと言われた。 だから、これは疲れが抜け切っていないだけ。少し休めば、また元に戻る。 そう信じたかった。 欠陥オメガの自分が、本格的なヒートを迎えるなど、考えたくもない。 考えた瞬間、それが現実になってしまう気がした。 夜だけ熱が出る。朝になれば、不思議なくらい何事もなかったように熱は引く。だから、仕事は続けられる。まだ、大丈夫――そう思い込もうとしていた。 けれど、体は正直だった。 智臣のことを思い浮かべるだけで、胸の奥が小さくざわめく。 あの定食屋で向かい合って食べた夕食。「無理をするな」と静かに告げられた声。 そして、帰り際に初めて呼ばれた自分の名前。『……湊』 その一言を思い出しただけで、胸の奥に熱が灯る。鼓動が少しだけ速くなり、首筋にじんわりと熱が集まっていく。(違う……) これは病気のせいだ。社長のことを考えたからじゃない。 そう否定すればするほど、熱はゆっくりと全身へ広がっていく。 布団の中で膝を抱え、小さく息を吐いた。「……まだ、大丈夫」 誰に聞かせるでもない、小さな独り言。 それは自分を安心させるための言葉ではなく、崩れそうになる心をどうにか繋ぎ止めるための、儚い呪文だった。 その後の智臣の態度は、ますます冷たく、徹底したものになっていった。 朝の送迎は、完全に取りやめになった。 以前は同じ車で会社へ向かうこともあったが、今で